調査日誌

調査日誌2022.06.01

湖底を科学する ー埋もれた歴史を湖底は語るー 桧原宿・桧原湖湖底遺跡の調査から

1888年(明治21年)7月15日、会津磐梯山は突如として水蒸気噴火を起こし、山体の崩壊に伴うなだれや火砕流などによって多くの人命を奪うと共に、河川の堰止めを生じて桧原湖・秋元湖などの広大な湖が形成された。現在の桧原湖を地図上や航空写真等で俯瞰すると、まるで巨大な龍が横たわっているような姿を呈している。その龍頭に該当する範囲に且つて会津と米沢を結ぶ街道が存在し、宿場であった桧原宿が所在していた。周辺の水位の上昇によって、生活を営むのに適さなくなった環境変化により、近隣の集落と同じく廃絶し、住民は他所へ移動した。桧原宿は明治の中頃で時間を止め、渇水期にその姿の一部を現わすことはあるが、その大半は湖中に沈む。


一里塚

藩政期に整備された一里塚は、街道に一里(約4Km)ごとに設置された土饅頭形の塚で、各地に痕跡を留めている。桧原宿においても、「桧原一里塚」と呼称される一里塚の存在を推定する説があり、検証が望まれる。はたして街道沿いに土饅頭形の土盛りが残存しているのか、湖底の調査成果が期待される。

一方で、「中ノ七里の一里塚跡」の現地観察によれば、土盛りを形成するために周辺の丘陵斜面を馬蹄形状に掘削した痕跡が認められた。仮に土盛りが長期間の水没による要因のため、流出していたとしても、人為的な周辺地形の改変の痕跡から、存在の確認につながる手掛かりが得られる可能性も残されている。

街道

桧原宿の渇水期の様相を示す入念な分布調査の報告書が、このほど北塩原村教育委員会によって公刊された。通常は水没している湖中の遺跡の実態を知ることのできる重要な成果である。報告書によると、街道には石畳状の敷石が敷設されていたことがうかがえ、陸上部の残存遺構を確認する際に、指標となる資料である。

湖岸で行う確認調査で、街道の一部が確認できれば湖中の遺跡と陸上部の遺跡を繋ぐ貴重な資料が得られるものと考えている。また、敷石上の施設以外に、波板状の凹凸など、道路遺構に伴う痕跡の平面的な確認など、ぜひ追求してみたい課題である。


大内宿

 桧原宿調査の参考に資するために、福島県南会津郡下郷町大字大内に所在する国指定重要伝統的建造物群保存地区大内宿を見学した。江戸時代の会津西街道の宿場である。

 茅葺建物が建ち並ぶ街道に佇むと、さながら時代劇の舞台に紛れ込んだようで、思わず黄門様ご一行の姿を探してしまった(笑)。街道の中央部に、元は石垣溝が通じていたが、その後改変されて、現在は道路の両側に側溝が設けられていると説明書きの表示板に記載されていた。興味深いのは、道路脇沿いに少し広い空間が設けられており、それぞれ民家への出入口部に面していることである。湖中の桧原宿は家屋の木材が取り壊されて、礎石等の基礎部を残すのみかもしれないが、街道の縁辺部の状況から家屋の位置を推考することができるかもしれないと、思わず想像を逞しくしてしまった。

 街道沿いには、神社に通じる参道と鳥居が接し、また、街道から山道へと変わる交接点脇の山上には子安観音像を祀る観音堂が所在していた。現在の大内宿の保存地区を端か端まで歩いて眺めただけではあったが、桧原宿の景観をイメージする上では大変参考となる体験であった。

この記事を書いた人
山本哲也 (陸上遺跡班・班長)
Tetsuya Yamamoto

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